青い鳥、飛んだ・前編

2005/01/02

青い鳥は地に横たわった。
「ぼくはもう飛べません。青い空よ、果て無き大空よ。さようなら。さようなら」
白い地面に青い光が散っている。
「ぼくの硝子の羽根は砕けてしまった」

鳥かごの鳥は空を知らない。









白髪の男。雪のように白い蓬髪。ほとんど閉じたような眼差しで遺跡に腰をかけている。崩れかかった廃墟の石組みはその長い年月という点で老人を受け入れていた。
老人が朝早くにここへ来て、日がな一日座っていることは知っていた。
「何をしているの」
ついと老人に寄った少女が話しかける。真っ赤な頭巾から豊かな金色の二本の三つ編みをはみ出させて、少女が問う。

まるで物語の情景だとエドは思う。
知りたがりの赤頭巾は狼に食われてしまうのだ。そう、本当の赤頭巾は助けに来てくれる狩人を持たないのだから。それとも、膨れた腹を割かれて罰を受ける狼は、不義の娘の隠喩か。



少女は思いを重ねるエドにかまわず問いを重ねる。
「これはなあに?」
「…飛行機の図面じゃよ、お嬢ちゃん」
「ヒコーキ?なあに、それ」
「これで空を飛べるんじゃよ」
「空を?あのお空を飛べるの?」
目を輝かせた少女に老人は首を横に振る。
「いいや。誰も成功しなかったんじゃ」



エドはそれが嘘であることを知っている。
そう、確かに男は14年前に自作の飛行機で世界初の無人飛行に成功している。セントラルで興行を行った機械仕掛けの飛行ショウは大評判となった。だが、その評判の高さが騒乱を招くとして軍に睨まれる結果となり、最終的には謎の飛行中の爆発事件とともに男は姿を消した。
事件になる前に興行を見たとある錬金術師は何かのまやかしではないかとさんざん調べたらしいが、確かに鉄の塊を空中に浮かせることに成功していると自著に記した。彼は名のある錬金術師で、エドはその判断を信用ができると踏んだ。

まやかしや奇術の類ではない。
だが。
だが、もしもそれが何らかの錬金術の賜物であったならば?
調査者は知らなかったが、男は錬金術を一時期学んでいる。更にその調査者は、賢者の石の可能性を考えに入れていない。彼は極めて現実的な人間で、錬金術師でありながら賢者の石は伝説上のもの、何らかの比喩に過ぎないと見下していたから。
だが、エドは賢者の石の実在を信じている。常識で考えにくいことには、賢者の石が関与している可能性がある。もはやエドは賢者の石の捜索範囲を生命現象だけに限定していなかった。病気からの劇的な復活や死者の再生だけが賢者の石の得意技ではない。それがどのように用いられるかは、術師によるのだ。

だから、興味を持った。






そろそろなりふりかまっていられなくなってきた己の境遇を自嘲した。
なりふりをかまっていなかったのはこれまでも同じことだった。だが、そこにタイムリミットという新たな制限が加わっていた。
…鎧への魂の定着力が弱まっていた。新たな血の錬成陣を重ねたが、当然右腕を代償とした錬成には及ばない。鋼の手で生身の左手に触れる、たったそれだけの動作で鎧の弟は「ダメだからね」といつになく厳しい声を出す。知らぬ間に途切れる意識、少しずつ増える頻度、その恐怖はいかほどかと思うのに、意識のあるときの弟は鋭敏さを増して、兄をとどめる。
「それをしたら、僕は兄さんを絶対に許さない」

…お前が許さないというのなら、それでも俺はいいんだ。たとえ何が失われようとも、お前さえ戻るのならば。
何によっても許されることのない罪を魂に刻んだ少年は呟く。だが、それを弟に悟らせてはならなかった。その瞬間が来るまでは。



少女と老人の会話は続いていた。
「その設計図の飛行機も飛ばないの?」
「こいつは飛ばないよ」
なぁぜ?なぜ飛ばないの。おじいちゃん。
ぴくりと老人は身を引く。
声がしゃがれ、ひび割れた。
「…わしは図面を引くだけだ」
「…違うわ」
少女はゆっくりと口を開く。
「どうして、これを作らないの。おじいちゃん」
これなら、飛べるのに。

一瞬の飛翔に支払った代価。老人の言葉に、エドは失ったものに思いを馳せる。
「――わしには、これ以上のものはもう思いつかん」
「なぜ」
なぜ。あなたはなにを失ったの。
「うしな、ったのは、」






「もういいだろ」
エドは夕暮れにひそんでいた男を見上げる。許しがたいこの身長差にむかむかする気持ちを抑え、言葉を継ぐ。
「あれはただの哀れな老人だ。もう今さら何をするわけじゃない」
用心深く、その名前を口にする。
「あいつじゃないんだよ。ティワナマヒの白い悪魔は」
この町に最近現れた正体不明の怪物。夜に空から現れ人を裂く白い悪魔。それは空を自由に飛び、低い機械音と共に急降下しては人を襲う。伝説の羽をもつ悪魔の名前をもらった怪物の正体はわからないまま、ただ犠牲者だけが増えていた。
何を調べているのか教えずに老人に接触させた軍人は、だがしかし驚くでなく平然と、そうか、と言っただけ。
「あいつは何も隠してねえよ。この俺が女装までして調べたんだ。いいかげんにしろよ」
大人の狡さに舌打ちしたい気持ちを抑えて赤いフードを後ろに跳ね飛ばし、少年はくだらない真似をさせた男をじろりとにらんだ。金髪のお下げを解き、器用に動く指が手早く一本の三つ編みに結びなおす。
「その格好が不満か?だが。意味がないわけでもないのだよ」
それは、14年前に死んだ孫娘の好んだ色なのだから。君より少し小さかったはずだよ。当時ね。
「当時?あの爆発事故でか?」
あまりに何も知らされていないことに気づく。
そう、あの老人は14年前の失敗以後、何をどうしてこんなところで待つようになったのか。
何を待っているのか。
「……くそッ」
14年前の事件に気をとられすぎて、現在の事件とのつながりは巧妙に隠されていた。昔飛行機械を作っていた老人がたまたまこの町にいたというそれだけのことで軍部が、この男が動くわけはなかった。
次から次へとこの男が提供してくる昔の文献に夢中になっていた。誘導されたのは自分だ。うまく、利用された。

秋の太陽は落ちるのが速い。薄暗がりは急激に視界を狭めていく。
二人の立つ場所からも、老人が立ち上がるのが見えた。
家に帰るのだろう。彼が何者か知る者のいない、待つ者のいない長屋に帰っていくのだ。
「……お前、あのじいさんがティワナマヒの悪魔だってまだ疑ってんのかよ」
なかばやけっぱちになって聞いた問いだった。己の愚かさが悔やまれた。この男に踊らされた自分の愚かさが。そう、俺は望まずとも軍の狗だ。
「いや」

常にない面持ちのその男の瞳に揺れる炎を見た、気がした。
極めて高温であるがゆえに青く揺らめく炎を。
後頭部を押さえ抱き寄せられた、と思ったのは錯覚で、エドは腕の中をくぐるように後ろへ追いやられる。
「下がっていろ」
そう言って後方を指し示した手袋の白に浮く、鮮烈の紅。
それはまさしく。
「やめろ、大佐!」
あのじいさんが何をしたって言うんだ!
「気付かなかったのか、お前は!あれが、何を代償としたのか!」
それとも引きずられたか。
同じ錬金術師として!



腕にしがみつくように男を抑えたエドは、鋭い叱責にびくりとした。
少年は気がついていた。
老人が賢者の石を使ったのかどうかはわからない。
だが、不十分な対価で錬成を行ってしまったのは確かだと、先の会話で彼の錬金術師の部分は冷静に分析を終えていた。
代価として持っていかれてしまったものは、老人にとって致命的だった。
錬金術師としても飛行機械の専門家としても。
「…あの人が代価にしたのは…」
振り払われたエドは、のろのろと口を開く。


知識。
最高のものを手に入れるために支払ったのは知識。
おそらくあの最後の爆発事件の後。いったい何が起きたのかはわからない。もしも本当に孫娘が爆発事故の犠牲者だとしたら、自分の作りだしたもので孫娘を死なせてしまった男は後悔しただろう。罪悪感に悶え苦しんで、一線を越えたかもしれない。 そして、老人は孫娘の命の代償に自分の全ての知識を支払った。
少し話しただけでわかる。あの老人にかつての知恵の輝きはなかった。

だからこそ、老人は恐れる。今までの人生で積み上げた知識全てを失って手に入れたものが、幻に過ぎないことを。
もしも。
もしもそれが飛ばなかったならば。
己の最高傑作が飛ばないはずはないと確信していても、そこにはわずかな疑いがある。なぜなら、彼はその図面が正しいということの確証を得られるだけの知識がないから。だから彼は自分を信じきれない。
もしも飛ばなかったならば、希望は全て失われてしまう。
まるでパンドラの箱に残った最後の希望を大事に抱え込むように。
彼はそれを作らない。
作れない。


…だからこそ、彼はティワナマヒの悪魔ではありえないのだ。
あんな殺人機械を新たに作ることは彼には不可能なのだから。
だが、それなのにこの冷徹な軍人はその恐るべき凶器である手をまっすぐに伸ばす。
「鋼の。教えずに悪かったね」
けれど、私たちはただ確信が欲しかっただけなのだと、存外に優しい声がそう言って、闇に光が瞬いた。

それは一瞬だけだったが、まるで聖なる光であるように見えた。


指先から伸びた光は弾けて老人を照らし出す。
老人と、その背後に飛来した大きな影を。
エドは初めて煉瓦の壁を振動させている低い音に気づく。
「白い悪魔…!」
小さな舌打ちと、外したと低い声。エドは息を飲む。
鋭い爪が小さなその姿を削った。まるで影絵の人形の頭を手でちぎり取ったように、見えた。
幼い子供の無邪気な悪戯のように。
人形はよろよろと歩いてぱたんと倒れた。かつての天才のあっけない最期だった。
大きな影がぶるぶると羽根を羽ばたかせる。その羽根は間髪入れずに飛んだ炎を反射してきらきらと光る。あからさまな金属光。低い駆動音も続いていた。ひゅんと頭上を暴風が通り過ぎ、空へ舞い上がる。そして再びの急降下。
蜘蛛の子を散らすように逃げた軍服が一人啄ばまれ、腕を抑えて転がった。それを救うべく放った炎を軽く避け、笑うような鳴き声が闇夜に響いた。
「どこが弱点かわかるか」
「…どっちでもいい。羽根を片方潰せば。心臓部は守られてるから無理だ」
エドは俯いてはいたが、声はしっかりしていた。
「――速すぎるな」
「当てられないならそう言えよ。わかった。俺が止める」
制止する暇もなく、少年は男の庇護下から飛び出していた。
止める気も、なかったと軍人は自分でわかっていた。そう、それを期待して自分は彼を巻き込んだ。

なのに、なぜ。
なぜ、こんなにも苦い気持ちなのだろう。




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