ゼロ⇔イチ発生学

2005/12/17

ぱちんぱちんと規則正しい音がしていた。
それはいつの間に耳の底で響いていて、いつしか無視できない音になる。
そうやって俺は少しずつ覚醒する。まるで眠りの底から引き上げられるように、没入していた本の世界から観念だけの幾何学的世界から、ゆっくりと精神が体に戻ってくる。俺の肉と鉄の体に。
目を上げれば、男が半分背中を向けていた。丸まった背中、ソファに引き上げた足。
ぱちんぱちん

「大佐」



立ち上がると膝の上から重い本が落ちた。
もう本の存在を忘れていた。あまりにも思考を追いすぎると現実に立ち返った時にうまく適応できない。いつもならなにげなくやっていることができなくなる。頭のどこかでまだ膨大な演算が行われているのがわかる。頭の容量の大部分がそちらに割かれている。

(テファの論理に従ってサイスの条件を最大化すると、理論上成形された家具に再び芽を生やし、地面に根付かせることが可能だ)
(しかし現実にはその論理式では家具から生木を錬成でき…ない)
(サイスの条件の最大化にテファではなく、ホルトの3項式、もしくはゼルガンデルの…)
(単純な形成条件か?より若い木であること、切り倒された直後ならば可能か)
(…それは)
(それは)
(命を与えるという事になるのか?)
目を閉じるとまた思考の深みに落ちていく。落ちていける。


「…の……はがねの」
そろそろと目を開けると、いつの間にかエドは両腕をつかまれていた。どうやら倒れそうになっていたらしい。
「たいさ」
「声が、届いたな」
「…聞こえてたさ」
その笑顔をなにか不愉快に感じて、エドは眉を寄せる。
腕をつかまれたまま、また椅子に座らされる。
「思考実験も良いが、自己保存の本能まで失わないでくれ」
「ヒトは本能なんてとうに見失っているよ」
こんなシニカルな言葉、自分よりよほど大佐の方がふさわしいのに。通常の思考が徐々に戻っていた。
また思考速度を上げるには暖機運転が必要だった。効率が悪い、と一人ごちてエドはもしかしたらお腹すいているかも、と思う。
「腹、減ったのかな」
俺、と首をかしげて見上げると、大人は作り笑顔をやめてはーっとため息をついた。
「君は本当に…」
その言葉にエドはまた不愉快な気持ちを思いだす。そうだ、俺。さっきの大佐も、今の大佐の言葉も、きらいだ。そういうの。
エドの腕をつかんだロイの手の爪がきれいに短くなっていた。
眺めていると、何を勘違いしたか、ぱっと男は手を離す。痛かったか、すまない、とか何とか言う言葉を無視してだぼっとしたズボンからはみだす足先を見れば、右の親指から順に3本だけ短い。不ぞろいなそれをじっと眺めていると、大人は不安そうに顔を覗き込む。



「鋼の?」
「――短すぎない?」
何を言われたのか一瞬わからずに、大人は口をぱくぱくさせている。見なくてもわかる。
「ツメ」
手を取ると妙にびくっとして引き抜きかかるのを、とっさにぎゅっと掴まえた。何逃げてるんだよ、とは言わなかった。だが言わずともわかったはずだ。いつもそうするように男が目を閉じたから。
めまいがするんだ、といつも男は言う。きみの瞳はときどき太陽そのものになって、私を灼き尽くそうとするようだ。だが、焼くのが得意なのは彼の方のはずだった。



そのまま力の抜けた指先をまさぐる。すべらせた切り口はきれいに処理されてなめらかだ。まるで女のように手入れされている。自分の知る女は誰一人としてここまでやっていなかった、と断言できる。ウィンリィの手はいつだって油の匂いがしていたし、自分の生活を守るために日々働く街の女たちは、師匠は荒れた手をしていた。でもしっかりと温かい手を。


エドは唐突なまでの動きで立ち上がり身を入れ替えるとロイを椅子に押しつけた。
「ちょっと…」
制止の声には何か期待がこもっていて、少年はその浅ましさをせせら笑う。その前に膝をつき足首を取った。
彼の意思に反して触れられた足はぴくと跳ねた。
暴れるなよ。
一言言って、少年はロイに背を向けるように足を抱え込み、足指の一本に爪切りを寄せた。



この爪を伸ばすことは可能だ。今この一瞬にその成長を促し。だが、それは生命の創生ではない。
一瞬で爪がぐるぐると弧を描いて伸びる様を思い浮かべて、少年は彼から見えない位置で口元を引き上げた。
実行には移さない。意味がない。
彼は驚くだろうか。それは瑣末な悪戯を実行する理由になりうる。
だが、彼が時折見せるひどく曖昧な反応は嫌だった。どうだろう。
彼がどんな反応をするかわからなかったので、少年はその悪戯を頭から消した。
悪戯ならもっと悪辣なのが良い。
彼が屈辱か羞恥を感じるような。


爪を切りそろえ切りカスを紙に包んで捨てるのを、男は座ったまま見ていた。少年はテーブルの上に置いてあったやすりを取ってくる。
「鋼の」
男がさすがに呆れた声を出す。自分でするのはいいが、他人にされるのは嫌なのか、と少し面白いと思った。
「爪を引っ掛けられて痛い目見るのは俺だからさァ」
自分がちろりと唇を舐めたことに気付いたのは、さっと男の顔に走った朱のせいだった。

やばい、と感じた。
無意識の衝動にこちらの敗北を感じ、少年はふんと不遜に鼻を鳴らす。




左手で触れた足はつめたく冷えて生きた感じがしない。だが本当に生命の通っていない自分の右手よりははるかに温かい。
爪を伸ばすことと、木を生やすことの違い。
ゼロはどこまでいってもゼロ。
ゼロとイチの間の無限の溝。
超えられない距離。


「なぜそれを私に言うかな」
ロイはぽつりと言った。その声が凍えていたので、エドは足の間から彼の顔を振り仰ぐ。
「錬金術師同士の話としては妥当だろ」
「こちらは名ばかりさ」
錬金術使いではあるが錬金術師ではないとことあるごとに言いたがる男は、自分を卑小化することで何を得ているのだろうか。劣等感は自ら晒すことで意味をなくす?
だがしかし。
「…不毛だと言いたいのだろう?」
「はい?」
「しょせん私と君では体を合わせたところで何も生まれない。君の心はここにはない。だから」
この大人は何度そのたぐいの話を持ち出せば気が済むのだろう。
エドは少し呆れて彼を見上げた。
「いいさ、さっさと出て行くがいい。賢者の石でも何でも探しに行ってしまえ!」
泣きそうな顔をして言うことではないな、と思う。


エドはよっこらせと声をかけて立ち上がると、じゃ、と前夜椅子の背に引っ掛けた上着を取った。
「うん、そろそろ行かなきゃと思ってたんだよね。アルの方も調べ物終わった頃だろうし」
「あ…」
それでいて振り返らない背に手を伸ばしているんだ、と振り返るまでもなくエドにはわかっていた。


「あんたと俺がゼロでない以上、どんなに細分化したところで俺たちの関係はゼロにはならないんだから」
あんたは俺のこんな言葉にほっとしたりして。
いつから自分たちの関係は手を伸ばし伸ばされる方向が逆転してしまったのか。
俺あんたのこと利用しているだけなんだよ。
あんたが俺を利用していたように。


わかってる?
ゼロからイチが発生したのはいつ?
発生させたのはどっち?
ゼロでもイチでもない口約束で、少年は旅に出る。
後に残されたのは爪を切り揃えた男一人。



「その爪がまた伸びてしまう前に戻ってくるさ」
ぱたんと閉じたドアに向かって男は立ち尽くす。





その約束は確実に破られるだろうと、二人とも知っていた。


そこに何かはあるけれど、それはゼロでないかわりにイチでもない。
そんな関係を書きたかったのだと思います…。

あと爪切り萌!錬金術話萌!
天才であるエド視点での話は難しい。




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