バスタブ

2006/07/17


「一番目のスープは冷たい。二番目のスープは熱すぎる。三番目がちょうどいい」


バスタブの乳白色の内壁に体をぴったりとつけると左肩が冷たい。鋼の右肩は何も感じない。そのままさらに浴槽をずりずりと沈む。まだほとんど湯の満ちていない浴槽は肉を鈍く擦る。 ずず、ずず。
蛙のように大きく足を広げ、そのまま腹を少しずつ液体が浸すのをぼんやりと見つめた。
ばぢばぢと耳苦しい音をたて、小さな浴槽はみるみる水位を上げていく。彼の肉を侵食して。
「一番目のベッドは小さすぎる。二番目のベッドは大きすぎる。三番目のベッドは」
…ちょうどいい。
この浴槽は本来の利用者たちには小さすぎるはずだ。背の低い彼ですらこんなに。


軍隊の風呂が中途半端な理由を知っているか?大浴場は大きいのに、中途半端に深い。座ることもできない。ただ立つと肩が出る。
彼は筋金入りの軍人の言葉を思い出す。
何と答えたのだったか。そう、一度にたくさんの人間が入浴できるからだろと答えたのだった。軍人はあの笑顔を浮かべる。表面だけの、空虚な笑顔。
ならば肩が出るような中途半端な深さである必要はないだろう。
じゃあ、なぜ。

「ゆっくり風呂に入らせないためさ」



ばちばちとシャワーのノズルに当たっていたカラムの水は、意識に上る前に水かさを増して音を弱める。
――そんなふうに。
そんなふうに、消えることができたのなら。誰にも気づかれずに自然に消えることのできる関係であったなら。



曖昧で勝手な思索は、がんがんとドアを叩く音で破られる。
何か聞きなれた声が聞こえはしないか?
それともそれもまた幻聴なのか。
「鋼の!」
そう、それは幻聴なのだ。そうでなくてはならない。
彼から与えられた任務を放り出して、連絡を絶って。
その自分が聞くのは幻聴でなくてはならない。
でなければ、この執着のどこに意味があるというのか。


見なくても思い浮かぶ。頑丈に閉ざされたドア。ただの薄いドアのはずのそれは分厚く芸術的に補強され、本来存在したドアノブはドアから生えた金属の蔦にみっちりと喰われている。鍵穴からは冷たい鋼の薔薇が花を咲かせる。何も考えずに打ち合わせた手のひらは、彼のイメージの奔流をただ混乱のままに錬成した。
彼の望みはただ外界の遮断だ。
さっき無防備にドアを打ち壊そうとした莫迦な男は、製作者の望みのままに拒絶された。死んではいないだろう。打ち所がよほど悪くないかぎり。理性という制御を失った錬成陣はいかほどの力を持つものか。


このドアを破れるものはただ一つ。
この世の中にただ一つ。



ぴくりと、彼の指がひきつれたように動く。
そう、彼の指先は感じている。指先に残る術式の名残が彼を呼ぶ。錬成生成物の破壊を訴える。



分厚いドアを、彼の意思を移したそれを破るのはただ一つだ。
あの、焔。
鋼の錬金術師の自律変化し成長する術式をも上回る速度で、超高温がそれを蒸発させる。
純粋に己の知識一つで、扉を開いた者の力すら強引に捩じ伏せる、それがあるからこそ、自分はあの男の前に形だけでも頭を垂れるのだ。
勘違いするな。軍の狗だと名乗りながら、あんな紋章の前にひれ伏すつもりなどない。屈するつもりもない。
自分が形だけだと言いながら頭を垂れるのは、あの恐るべき強さにだけだ。なぜ進みを止めることがないのか。常に上だけ見て手を伸ばすことができるのか。扉を開いたというただそれだけで彼の認識の上を行く自分と彼との間の距離は、気づけばずいぶんと埋められている。曖昧で茫漠な概念を操る自分とそれを理論で充足する彼。なぜあんなにも。

その心の強さが少年をどうしようもなくひきつける。
焔がそんな思考すら焼き尽くそうとしている。
錬成物をとろかす焔の熱さが指先から自分を燃やしだす。この愚かな思考も心も全て。



激しくバスルームのドアが跳ね返る。
軍靴の足音も荒々しく、軍人はあさく生温い湯の張られた浴槽に腕を突っ込む。
機械鎧の重さを感じていないかのようにぐっと少年を浴槽から引き上げた。
そのまま抱きすくめられて鋼の称号を持つ少年は、薄く目を開く。
「たいさ?」
「…すまない」
「俺、大佐から逃げようとしたんだよ」
「…」
短い黒髪から覗く耳に息と言葉を吹き込む。
「もうこれ以上一緒にいられないと思って」
濡れた生身の左手を伸ばしてその頭を抱え込む。
「私は自惚れていいのかな?」
「…」
「そんなことを言いながら、君は」
私が見つけられる場所に立てこもる。


幸せでおかしくなりそうだ、という男にあんたはとっくに狂ってるよ、と告げれば、深く甘い口付けが降ってきた。




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送