幸福の代価01

2007/01/29

いつ引き込まれたのかもわからなかった。




「大佐ー報告書ー」
いつものようにノックと同時にドアを開ける。
と振り返った目的の男とその有能な副官の深刻そうな様子に、少年は嫌な予感がした。
少なくとも彼は弟に「嫌な予感がしたんだ、俺は!」と主張した。
エドは「ごめん」とかなんとか口の中でもごもご言いつつ、退散しようとする。
彼女は開きかけた口を一度閉じ、一つ大きく息を吐いてから上官に目を戻した。
「宜しいでしょう。ですが少なくとも一人、お連れください」
「人数を増やしても意味はない。君の同行は許可できない」
めんどくさい仕事の話だよ、まずい時に来ちゃったなあ、もう。
エドはそろそろとドアを閉める。
「ですから私は」
重い樫の扉が音を遮断する。
ふーとため息をついた次の瞬間、その金色の髪が舞い上がった。
「エドワード君をお連れください、と申し上げているのです」
ドアは再び激しい勢いで引き開けられ、エドは自分同様間抜けな顔をさらす大佐と目を合わせた。



事情のわからないエドはこの一悶着を黙って見守った。
「ただ射撃の腕があるだけの者では駄目だと仰るなら、私は同行できません。それはけっこうです。ですが大佐ご自身が行かれる必要もないのですよ!」
「錬金術師でないと無理だ」
「ですからエドワード君をお連れください」
「鋼のをそんな危険な目にあわせるわけには行かない。これは戦いでもなんでもないんだ。私一人で十分だ!」
「どれだけの災厄かおわかりでしょう!私は副官として、大佐をお一人で行かせるわけには行きません!」
お互いに一歩も引かない。
この二人が本気で意見を戦わせるとこうなるのか、と執務室の壁に張りついて少年は目を彷徨わせた。いつもなら大抵大佐が悪かったり、強情だったりするだけだから、大佐が折れるんだけど、今回ばかりは大佐もリザさんも自分が正しいと思っているわけか。

ホークアイ中尉は眉をきりきりと吊り上げて、ゆっくりと言った。
「一人で十分、悪夢に対抗できる精神力を持つ錬金術師が必要だ」
こつこつとテーブルを指で叩く。
「そう大佐が仰るのならば、エドワード君一人で行ってもらってもいいのですよ」
あ、大佐が固まった。
エドがのんびり考えていると氷の女王の眼差しがこちらに向く。
「ごめんなさいね、エドワード君。しょせん私はあなたより大佐の方が大事なの」
笑顔が怖い。
「いえ、それで」
結構でございます、とエドワードの口が自然に動きかけたその時、大佐は屈した。
「わかった、中尉。鋼のも一緒にいく。それでいいか」
結局最後までエドワードの意志は完全に無視された。



「それで何で僕は駄目なのさ、兄さん」
「お前は不確定要素が多すぎて、どういう状態を招くかわからないから。できれば俺たちだけで行った方がいいと思う」
兄はきちんと目を見て話したので、弟は少し安心した。
やっぱり魂だけが分離してると引っ張られるかなあ、と特殊な状態にある弟は一人ごちる。どうかな、と兄は思うがそれは口には出さない。実のところ、魂だけの存在という特殊な弟は、この事態に影響を受けないかもしれない。それならば自分などよりも適任なのだが。
どちらにしろ、兄に弟をわざわざ危険な目にあわせる趣味はない。
「…夢を見るのは、魂か精神か肉体か」
「何?兄さん」
「哲学的命題だなあ…」




翌日の朝、大佐の運転する軍用車の助手席でエドは風に吹かれていた。
「なんでわざわざ屋根ナシにしたの」
「せめてオープンタイプと言え」
そんなことよりも他に言うことはないのか、と大佐はなかば怒鳴るように言った。
「かなりスピード出してるね」
「…すまない」
「平気だよ。事故らなきゃな」
「違う。君が来る必要はないんだ。何なら降ろそうか」
80を通り越したメーターを横目で見て、本当に降ろす気があるのかな、こいつは、と少年は可愛い顔をした。
「乗りかかった船…車だからな!」
「中尉を連れてきたくはなかったんだ。だから一人で行けるように、錬金術師でないとだめだと言ったんだ。あんなにタイミング良く君が来るとは思わなかったのでね」
言い訳だ、と子供は考え、「すまん、言い訳だ」と大人は言い、子供は大人はズルイという結論に達した。
「別にいいよ。現実以上の悪夢が存在すると思う?」
軍人は「名言だ」と唇に笑みの形を作って見せた。
「…パンドラの箱について、知識は?」
「パンドラ?ええと、神様が人間に与えたいろんなものが詰まった箱。開けちゃいけないって言われたのに馬鹿なパンドラという女がそれを開ける。中に入っていた災厄が飛び出し、慌ててパンドラは閉めたけど後の祭りだった。でも箱の中には希望が残っていた。
だから人間はこの災厄に満ちた世界でも希望を失わずに生きていける」
的確でよくまとまっていると、大人は批評した。

「伝説だろ?」
「伝説だ」
即答だった。だが、男の顔は厳しい。
「トーラ写本を読んだことはないな」
「あいにくと。一部分しか残存していないと聞いているけど」
「トーラ写本は荒唐無稽な内容だ。ありとあらゆる伝説・神話のたぐいがむちゃくちゃな解釈を受けている。あれを全て信じれば世界はトーラが作ったことになる」
「さっきから何の話だよ。さっさと本題に入れよ」
男はちらりとエドを見て、もう本題に入っている、と低く言った。
トーラ写本に、パンドラの箱の話がある。結果は同じだが、内容はまるで違う。かつてトーラを滅亡寸前にまでおいやった災厄があった。トーラの偉大なる王は箱にその大いなる災厄を閉じ込めた。このパンドラの箱は愚かな女によって開かれたりはしない。写本の中には、パンドラの箱というものがあり、それは内に災厄を封じていると書かれてあるだけだ。
「俺には本題が見えないけど」
「私たちが立ち向かわねばならないのは、悪夢の世界だと言ったな。パンドラの箱が開き、その災厄が今レスポールを襲っている」
これだけスピードを出しても事故らないのは、この道を走るものが他にないからだ。人も動物も、影すら見せない。この先には一つしか町がない。この道はまっすぐそこへ向かい、その町から分岐しさらに伸びている。交易の要であるはずのレスポールが完全に封鎖されている。途中で銀時計を示して通過したバリケードは軍の手で作られたものだった。


「まだ4日だ。だがレスポールから帰還したものはいない」
「ゲリラとか?」
「違う、災厄だ」
災厄って、とエドは頭を振った。悪夢だの災厄だの…。
「境界線はレスポールを含む直径約5km圏内だ。いつの間にか影響を受ける」
「具体的には?」
「写本では災厄はその身の内に人々を引き込むとあったがな。被害者が生きているのか死んでいるのかわからない。倒れる姿は視認できていたようだが、救助に向かった者も倒れたからな」
そこで引き上げた自分大事な観察者がいるから、ようやくレスポールの異常が判明したんだがな、と大佐が口元を引き上げたのを見て、エドはわからないと呟く。見えない災厄。触れると倒れる
「化学兵器、毒ガスとかの可能性は」
「ほぼない。風下でも風上と同様に距離をとれば問題ない上に、これだけ時間が経っても効力が衰えない。接触感染も考えたが、遠目で見るかぎり身体症状は何も現れていない。今のところ精神汚染が最有力だ」
写本の内容がどこまで正しいのかわからない、だが、それがレスポールで起こっているのは事実だ。 男は断定して、指を上げた。
「そら、見えてきた」

陽光の下、大きな街が姿を現す。まるで立ちふさがる怪物のように。まるで二人を待ち構える悪夢のように。

「レスポールだ」




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