また、明日 1

2004/02/10

少年は走ってきたのがバレないように、近くで立ち止まって息をつく。
飛び込んでいくのはかっこ悪いし。ほおが赤いのは寒かったから、で問題ない。
わざとゆっくり歩いて、司令部の前で顔見知りの門番に「あーあ、これから大佐の皮肉に耐えなきゃなんねーんだよ」と愚痴る。
廊下で美人の中尉に会うと、「あら」と首を傾げられた。
「明日じゃなかったの、帰ってくるの」


珍しく連絡を入れたのは2日前で、頼んでおいた論文と、散逸していたのが見つかったという古い書物の写しが手に入ったかどうか聞くためで、他意はなかった。
だが、久しぶりに声が聞けたからといってうっかり変な気分になって、軍用回線で「さみしい?」などと聞いてはいけなかったのだ。
お子様は、まさか、まさか、あんな返事が返ってくるとは思わなかったのだ。

困ったような、哀れみの眼差し…だったのだろうか。不思議な表情の中尉は「大佐なら…部屋で仕事をしてらっしゃるんだけど」と、これまた微妙な言い方をした。わざわざ言うことではないだろう。皆がここにいる以上、何も事件は起こっておらず、大佐は机にしがみついて書類を処理しているのだろうから。
何かを言いたそうにしているのはわかったけれど、子供はわからないふりをしておいた。
元気に「あ、じゃあ大佐に直接報告書だしとくから!」と隣の部屋を目指す。
背後で「ああ…」と軍人どものためいき大合唱が聞こえた気がしたが、それも無視する。

何か文句でも?
少年はお子様特権というものを知っていた。


いつもどおりノックもなしにばんとドアを開けると、
「ノックぐらいしたまえ」
冷静な声が飛んでくる。机の上に置かれた書類の山にペンを走らせる彼は顔も上げない。
いつもなら同じ意味でも「ノックも知らないのかね」と嫌味たっぷりに言う男がいったいどうしたのだろう。
ちゃんとドアを閉めて、ついでに後ろ手にこそりと鍵も閉めておいてから、少年は言った。
「電話みたいな可愛いセリフを期待していたのにな」



「………は、がねの…」
長い沈黙の後の第一声はずいぶん間の抜けたものだった。
かつかつと歩み寄れば、広げた書類に大きくインクの染みができていた。
しかもそれは大佐がペンをそのままにしているためにどんどん大きくなっていく。
「ほら、大佐、大佐。書類が」
呆然としている大佐の手からペンを取り上げ、ついでに手を打ち合わせて書類の染みを消す。正確には紙のその部分から必要分量のインクを錬成してペンに戻した。
はい、と大佐にペンを差し出してみたが、持ってもまたインクをこぼしそうだったのでインク壷に戻しておいた。
「は…鋼の?」
「うん、俺来たよ」
本当に声で初めて気づいたらしいと知って、少年は今さらながら目を丸くする。いつもなら少年がドアを開ける前にドアを開ける、という芸当すら披露してみせる彼が。
足音でわかると言っていたのに、と首を傾げる。
君の足音は左右で違うからね、と。

椅子のすぐ側に立てば、無意識のように手を伸ばしてくる。
大佐―どうしちゃったのさ。
思いつつも黙ってしたいようにさせておく。
伸ばした指先が頬に触れるか触れないかのところで。


電気に撃たれたように彼の瞳に光が戻る。
さっと手を引っ込め、書類に向き直る。
「私は仕事が忙しい。今日は相手はしてあげられないからな」
「大佐」
さらさらと紙の上を動く手。なめらかなスピード。
「だから、君は宿に戻りたまえ」
見ててかなり笑えるけど、教えてやるべきだろう。
「…大佐、ペン持ってないよ」
「何!?」
そうとう疲れてるのか、何なんだろうな、この人は。
あわててペンを引っつかむダメな大人を見おろして、少年は頭の上で手を組んだ。
「なんだよ、そんなに忙しいわけ」
「そうだ」
今度こそちゃんとサインをしているようだが、なんだか字がよがんでいる。流れるようなサインが今日は引っかかっている。
「ふーん、夜には終わる?」
「――今日はしないからな。鋼のの相手をしている暇はないと言ったはずだ。うちには来るなよ」



鍵などなくても扉を作って入る、という特技を持つこの年若い錬金術師に、彼が合鍵を渡したのはいつだったろうか。夜中に錬成の光が目立つ、という理由で。
けっこう露骨だった下心をきっぱりと拒絶されて、少年は憤然と机に腰かけた。
「山が崩れるからな。あんまり変なところに座らないでくれよ」
…余計な口を叩くのはこの口か!と塞いでやりたいところだが、あいにくその山が邪魔をしている。
「動かない方がいい」
少しづつ山が自分の方に崩れてきて、身動きできなくなってしまった少年を救出するために、男は苦笑して椅子から立ち上がった。







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